Jan. 23, 2005

文学部ウェブページのトップページ掲載のエッセー

まぼろしの癒鳥(ゆとり)

 昨年12月,経済協力開発機構による学習到達度調査(PISA)の結果が公表された。このうち日本の文科省・マスコミは,(文章や図の)読解力が平均水準に落ち込んだことを憂慮し,強調した。はじまったばかりの総合学習に代表されるゆとり教育は撤回される模様で,生徒や教員に競争を強いる方針が現文科相によって打ち出された。調査結果の発表が1990年代後半の動きに弾みをつけた格好である。
 詰め込み教育は生徒の自主性や創造性を失わせる。そういう反省があって,ゆとり教育が始まった筈である。平成14年4月施行の小学校新学習指導要領の総則にある『総合的な学習の時間』では,「自ら課題を見付け,自ら学び,自ら考え,主体的に判断し,よりよく問題を解決する資質や能力を育てること。学び方やものの考え方を身に付け,問題の解決や探究活動に主体的,創造的に取り組む態度を育て,自己の生き方を考えることができるようにすること」とある。
 戦後教育に限ってもこの種の振り子現象はあったのだが,自己責任や勝ち組に残る,という思想が幅を利かしている今にあっては,次の転換は,PISAの結果にすでに現れている二極化をますます深めることと懸念される。技術大国日本が国際社会で勝ち組に残るべく優れた人材と質の良い労働力を養成するために,再び学力偏重教育が推進される。日本人は何故ノーベル賞受賞者が少ないのかといった議論の中からも生まれたゆとり教育ではあったが,早くもかなぐり捨てられる。学校や社会の構成員を学力や労働生産性だけでは測ることができない筈だ。この学力評価があまり幅を利かせると,そこから外れた人々は自らの価値世界を作り出すことが難しくなるし,作り出していたとしてもその世界に自信が持てなくなる。
 日本の社会の成熟の兆しとして,ゆとり教育が生まれたのだと思う。多様な大衆文化が生まれ定着し,明日が見えない経済生活ではあっても生きてゆける多様な社会が醸成されようとしている時に,またぞろ「自己の生き方を考えることができる」こととは無縁の「学力」がのさばり始めるのは由々しき事態ではないか。(2005.1.23記)