2004.7.17掲載
木庭元晴
七年前に関西大学考古学研究室の御世話で仏陀の聖地の一つ祇園精舎(Saheth)そしてこれに近接する舎衛城(Maheth)に行った。インドのデリーの東,ヒンドスタン平原西部ウッタルプラデシュ州にある。当時,関西大学考古学研究室が発掘していたのは舎衛城であった。この時には,当ゼミ出身の大手前大学の貝柄君と千葉大学理学研究科の院生(花粉分析が専門で千葉大教員の宮内さんから紹介してもらった)などと行動を共にしたが,実質的調査はできなかった。
前回でかけた時に,発掘現場でトレンチ最下部に舎衛城の基底層を確認し,それが水漬(みずつき)レスであると考えた。当時,発掘責任者だった米田文孝先生に尋ねて,その高度が祇園精舎と舎衛城周辺の氾濫原高度とほぼ一致することを知った。さらに米田先生に御願いして,比較的近い煉瓦用材料の露天掘り地に案内してもらい,その材料がトレンチ最下部のものと一致することを確認した。ヒンドスタン平原には広く煉瓦用材料の露天掘り地が分布しており,そしてこの堆積物がヒンドスタン平原に広く認められることも確かなようであった。
この秋にこのプロジェクトに関する国際シンポジュームが関西大学考古学研究室主催で開かれるが発表者の一員にカウントされている。そこで,そのままでは発表材料がないので,この四月〜五月にかけて再度調査することにし,考古学研究室の上杉氏に同行願うことになった。そのテーマはこの水漬レスである。
今回の調査は前回と比べるとすこぶる順調に進んだ。日本で実施するのとは桁違いではあったが。現地の地図がないので,イコノスの衛星写真(解像度80cmパンクロのみ)とガーミン社のゲッコーという携帯GPS(衛星測位システム)を持参し位置確認をしながら,4/23-5/1の間、昼休みを挟みながら、十数カ所でトレンチ調査を実施した。位置選定は衛星写真の画像の陰影から想定される地形を意識して実施した。インド人アシスタントが掘ってくれるからありがたい。観察と試料収集に専念できた。とはいえ,祇園精舎・舎衛城の外,さらにその周辺でなくても,深く掘ってはならないという。できれば5mは掘りたかったのであるが,1.5mほどの小トレンチを一日に数個掘ることになった。
前回もガンジス川の支流ラプティ川に行ったが調査ができなかったので,上杉氏に御願いして,車をチャーターして煉瓦工場、ラプティ川河畔に再度出かけた。ラプティ川に到着して小用を催してきた。ゆっくりと露頭が観察できない懼れがある。インド人アシスタントにことの是非を聞いたら、母なるガンジスに注ぐ川だから、直接は駄目だという。そこでそばの畑でさせていただくことにした。どうも屋外でことを済ますのが以前のように容易でなくなった。
川には流れ橋が懸かっていて人は通行料を5ルピーほど取られるらしい。今の時期は川の水量が少なく、最初の写真のように牛が集団でも無料で易々と渡っていた。この川の砂は細かくて,簡単に河床に平坦面を作ることができる。日本では考えられない景観である。今回は幸い,河床堆積物や河岸の自然断面を見ることができた。それが次の写真である。白い縞模様が川の掃流堆積物で,その間の暗色の縞が水漬レスである。ヒンドスタン平原の堆積物はこのように,河川堆積物とレス堆積物の互層からなっているのである。
煉瓦の原料は沖積層とくに泥質の部分とされているが、ぼくは西にあるタール砂漠からのレスloessが水面下に貯まったものを材料にしていると考えている。これがこれまで述べてきた水漬レスである。層理がなく石英などの鉱物が水磨されていない。水漬レスの地層中にはちいさなマンガンノジュールが多く分布している。さて,煉瓦工場は原料産地内に立地し表面でほぼ枯渇したら移動してゆく。
煉瓦工場は,ぼくが描く昔の工場に近いイメージで他の地理学関係者が来てもちょっとしたため息を付くだろう。この写真には見えないが後ろに石炭が山積みされていて,それを燃料にしている。労働条件は厳しいようで,工場内で写真を撮っていたらおじさんとおにいさんたちがやってきて、ちょっとした騒動になった。
さて帰国となるのであるが,デリーのホテルで帰る前日の夜から高熱と下痢だ。飛行機では一食も摂ることができなかった。耳鳴りと寒気と下痢だ。それでもバッファリン1錠を2回に分けて飲んだら寒気はほぼ無くなった。関西空港に到着後、初めて検疫に申告した。そして初めて隔離を体験することになる。
(本学教授)