Apr. 26記、May 13追加, 2004

 何回書くことができるか疑問ですが、インドでの思いをここに記します。上から読んでください。ここには多数の偏見は当然ながらあります。ぼくの極めて短期の滞在での勝手な想いですし、読者はどうぞ、ぼくが悪意の姿勢から書いたものでないことをご理解ください。
 自宅に戻ってから写真をはめ込みたいと思います。

インドでのぼくの断想・偏見

デリーの白い靴 4/24,2004

 上の写真はシラヴァスティのサヘートからマヘートに向かって撮影したもの。森林の多少の高まりがマヘート

 今、ヒンドスタン平原にいる。大阪府箕面市の結構広く田園が残る地域では衛星を6個ほどキャッチしたが、ここヒンドスタン平原では8個〜9個もかなりの確度でキャッチしている。使い方のマニュアルを持ってきて、機内などで読もうとするが、なかなか、読む気がしない。関西空港を4月21日13時50分に発って日本時間の午後12時すぎに到着。現地時間では午後9時半頃に到着した。Hotel Connaughtに宿泊。
 翌日、デリー。ここでは市街図を片手にGekoを首にぶら下げてConnaugt Market Placeに向かって徒歩にて出発。もの凄い雑踏と埃。汗がだらだらと出る。まずはタクシーの運転手、さらには若者が次から次と話しかけてくる。お上りさん丸出しのいでたちだから、これは当然だろう。Gekoをマスターしていないのと、暑さと、回りからのノイズで混乱状態だ。兎に角は、迷わないように気遣いながら、公園に入って休もうとすると、先ほどインドの大判の地図を売っていた好青年がここは危険だという。靴を汚されるという。意味がわからなかったが、彼の説明で7年前の事件に思い当たった。
 そういえば、7年前に公園で一人の青年に話しかけられた。ぼくの白い靴を指さす。見ると、真っ白だったはずの運動靴になんか汚いものが付いている。はっきりとは覚えていないが、靴磨きをお願いしたら、20ドル程度を要求された筈だ。そこで大口論になり、1ドルだったら払うと主張していたら、さらに年かさのあるお兄さんが出てきて、確かに高すぎる、5ドルぐらいだと言う。助けだと思ったが、5ドルでも高すぎる、なんてぼくは言っていた。数名に囲まれた格好であった。そこに善良な青年市民が一人通りかかって、彼等の手口だ、気が付かないように靴を汚して、法外な額を要求するのだという。そこで、ぼくは1ドルを渡して、その場から離れた。後ろからぼくを攻撃する叫び声が続いた、と思う。
 公園から抜け出して、もうホテルに帰ろうと、弱気を出して、ちょっと迷っているように見えたのだろう、信頼のおける感じのお兄さんがネパール(カシミールでは無かったと思う)から来たのかという。ぼくは日本人には見えないらしい。で政府のショッピングセンターを案内されたら7年前にも行ったところだった。絨毯を200ドルまたは400ドルのを紹介されたが、何れも自宅にあるものであった(これは近所の新船場で買ったりお祝いに貰ったりしたものだ)。日本人の好みなのだろう。ちなみに、ここでは聞かれたから日本人と名乗った。このショッピングセンターはまことに何の魅力もなく、この店の裏にたまたま?あった私のホテルに早々に引き上げた。まがい物の彫刻などには、疾うに飽き飽きしていからだ。

サソリ 4/26

 左の写真はぼくの部屋のベッド。右の写真はぼくが寄宿していたビルマ寺の礼拝堂。この2階の正面の部屋を陣取った。

 束の間の電灯のもとで、パソコンを久しぶりに立ち上げた。21日に大阪をエアインディアで出発。デリーで2泊して、Lucknowまで国内線のAir SAHARAで。その後、陸路180km、Sravastiに到着。Buddaの聖地の一つ、祇園精舎サヘートに近接するビルマ寺に到着。関西大学考古学研究室の秀才であるU君とともにしている。7年ぶりのインド祇園精舎を含む都市である。ちょっとした随筆でもと思って、ここに記述することにした。今書いていたら、巡礼僧さんがぼくの部屋のそばを通っていった。まだ若い人だ。前に戻るが、エアインディアのフライトアテンダントはおじさんおばさんだが、SAHARAは、地上スタッフもフライトアテンダントも美しい。菩薩像とも思える。心のなかはそうでもないようだが。
 ビルマ寺のお寺の2階に寄宿させてもらうことになる。U君は慣れたものだが、ぼくには違和感がある。ぼくは広い部屋の板を打ち付けた6台の寝台の一つを選んだ。インド式のトイレに慣れず便通が思わしくない。蚊帳を吊っているのだが蚊取り線香が途絶えると、てきめんに蚊が耳元でうなりをあげる。幸い、懼れていた暑さはほとんどなく、朝方の冷え込みが気持ちいい。一昨日は、午後4字頃、竜巻がきて、急に空気が冷たくなった。爽快だ。
 U君とぼくの部屋がある2階のベランダは広い。1階から階段を上がった付近にぼくのと同じ木のベッドを置いて、年の頃はたぶんぼくとほぼ同じであろう老人?が夕方から陣取り、朝まで寝ている。小型発電器があるのだがまだ機能していないときだった。挨拶はお互いしたのだが言葉が通じない。なかなかいいお顔なのだが、午後8時も過ぎて真っ暗だし、夕食もまだだし、星空の下で蚊にかまれながら黙してベランダのちょっとしたステップに座っているしかない。その彼が突然、ぼくの部屋の入り口の4ステップほどの階段から1mほど離れた壁面を懐中電灯で照らした。ぼくに見ろ?という。まあ、会話がはじまったのはいいことだと思いながら、その光の先を見ると、赤い蟹がいた。その後、10分後ほどに、若者(発電器を設置しにきた)が、scorpionだという。さらにUくんが後で聞いたことだが、その老人?は15〜20匹が列をなしてその穴に入ったのを見たという。この付近のさそりには、黒いのと、茶色いのが居て、黒いのは噛まれても一日灼熱地獄(そう思う)を味わえばいいのだが、茶色いのはずーと危険だそうである。それから懐中電灯をつけて階段や洗面台やトイレに行くことにしたが、ついつい忘れる。ぼくのドアのすぐ30cmほどにサソリの穴があるのだ。この文章を入力中にも折角点いた電気が切れた。そして復帰。いまはパソコンも充電しながらできている。大きな蟻がどこどこ部屋に入って徘徊している。さそりって、入ってこないのかなあ。ここの人たちは特に退治もしないらしい。

マヘート祇園精舎の周辺の寺 4/27

 

 左はシラヴァスティの水牛、右は日本のODAで建設された街灯に鳥の巣ができているところ。

 寄宿先はビルマ寺である。僧(1名)とは別に寺を世話するご家族が住む。ここには食客にあたる人々もいる。家族の学歴は高く、この付近の社会でのいわば中間階層に列しているようである。ご家族に接して、女性の美しさ、男性のたくましさが強く感じられるのであって、今更ながらに文化を超えたこの程度の理解は瞬時に可能であることを悟るのである。
 このビルマ寺に面しては中国寺がある。さらにはタイ寺、韓国寺、日本の梵鐘庭園などがある。ビルマ寺から徒歩で20分ぐらいだろうか、一泊1万円?ほどの通称、日航ホテルというのもあるそうだ。ぼくの部屋からはその方面にけばけばしいネオンが見える。お祭りと関係があるようだが。祇園精舎は仏教の八大聖地に数えられている。この種の情報はU氏からのものである。それにしても発電器がすどうしの窓の下ではげしくうなり煙を上げる。蚊取り線香の甲斐もなく足の裏を噛まれて、かなりのかゆさである。蜘蛛の糸が頭に降りかかってくるし、お腹は減ったし。風がない。U氏によれば、祇園精舎へは数年前までは日本人巡礼の団体さんが数十人単位で観光バスで祇園精舎に乗り付けたようである。それにしても、暑いと言われたこの季節ではあったが、幸い、思ったほど暑くもなく、大阪の夏よりははるかに過ごしやすい。昆虫の襲撃には多少辟易しているが。
 ちなみにここでも日本のODAの光と影があった。あれ? ちょっと心地よい冷気を感じたぞ。今9時15分。遙かヒマラヤからやってくるのか。発電器の排気ガスは臭うが、心地よい。Lucknowからここシラヴァスティに向かって直線に近い道路が走るが、ODAで何らかの整備をしたという。さらにサヘートからマヘートまでの数百メートルの道路には数年前に街頭が設置されたのではあるが、電気が来ないので未だ点灯したことはないという。実際に見てみたが、電球はぼろぼろで鳥の巣になっていた。

Aおじさん頑張る 4/27

 今日の午後は、このヒンドスタン平原の調査にインド人三名に同行してもらった。 Aおじさん、Bさん、Cさんとする。ビルマ寺から徒歩で40分ほどの場所である。マヘートに接した南西部を歩く。 Aおじさんは関西大学考古学研究室がインド研究を開始して以来の信頼に足る人らしい。インド棒術の心得があり、ワッチマンとして重宝されてきた。一緒に歩いていて、確かにそう思った。昨朝からマヘート周辺のピット掘りを始めたが、Aおじさんはぼくのカバンを背中にしょって、ほぼ傍観しているだけであった。ところが、今日の午後になって突然、Aおじさんがツルハシを持ったのである。はっきりはわからないけど、この付近の集落では名士のBさんが人手の不足を嘆いたことにあるらしい。Bさんはかなりの饒舌家である。かつてはこの地の秀才と騒がれた方らしいがこの地で仕事をみつけることができなかった。農業に従事している。
 AおじさんはBさんによれば60歳だそうだ。少し老けて見える。いつも同じ服装ではあるが、毎日洗濯しているようだ。上下チェック模様で、上着はカッターシャツ。なかなかいいものだ。下には寸胴の布を巻いている。脚には靴。頭にはターバン。他の人が雪駄が中心なのと比べると不思議だ。ハリランさんは昨日は裸足だったが今日は雪駄を履いている。もちろん穴を掘るときは裸足だ。Aおじさんは靴を履いている。
 Aおじさんがワッチマンとして信頼されているということは、あらゆる貴重品をAおじさんに任せていいということだ。その貴重品が入った黒いカバンをAおじさんにぼくは任せている。
 宿への帰り道、この3人では唯一英語がブロークンにわかるBさんと話した。少なくともこの地では、たとえば子どもが3人いれば、1/3に均等に土地を相続するという。今でも生活がきびしいのに、長男であっても農業を続けることが難しいという。日本の戦前の農家の相続や婚姻について、私が知るところを述べたが、かなりの感心を持って聞いてくれた。Bさんはたぶん40歳ぐらいだろうと思う。追伸:今日28日の調査の帰りに聞いたら1960年生まれだった。

ジャイナ教のお坊さん、ヒンディーのヴェジタリアンと 4/28

左の写真は、ラクノウのイスラム寺院であり城

 っっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっって、なっているのは、今、上から、大きな虫がお腹に落ちてきて、払いのけていたら、こういう表示になったので、ぼくの今の状況がうまく示されていると思い、消さないことにした。さて、今、先ほどから花火が見えて、今は音が聞こえる。今日は一度も電気が点かないので、ネオンサインは見えないが、あのジャイナ教のお寺からのようだ。U氏によれば、ここのジャイナ教のお坊さんは身に何も付けていないという。ひげも髪の毛も伸び放題とのこと。Bさんにも聞いたが笑いながら頷いていた。ここから20分ほどのことなので、一度滞在中にお邪魔したいと思う。いわゆる無衣派のお寺らしい。さて、5/3午前に、ジャイナ寺などに出かけた。ジャイナ教は「1世紀ごろ,無所有戒をめぐって白衣派(自由派)と空衣(裸行とも)派(保守派)に大分裂した」のであるが両派のお寺が接して建立されている。両寺を参拝したが、いずれの開祖マハービーラの像はほぼ裸体であった。陰部を隠していない。説法の絵などもあるが、僧だけが裸体で、他の信者は普通に服を着ていた。
 Bさんと食事について話した。ヴェジタリアンであることを誇りにしている。彼の両親もそうらしい。彼の家系は所属の村内さらには外の村でも尊敬されているらしい。チキン、魚、卵も食べていない。ぼくも牛豚などの肉を食べないことをを言ったら、親近感を持ってくれた。日本でこのぼくの姿勢を保つことは結構ヒンシュクを買うものであることを説明したら、わかってくれたようだ。Bさんはお腹は出ているが極めて健康そうだ。これも見ても、実はぼくも余り食べたくはないチキン、魚、卵をすてる時期に来ているかな、って思ったりしている。
 日本では一緒の弁当を食べたがる。その中のおかずを除けると、ヒンシュクをかってしまう。多様性を認めない社会は住みづらい。日本ではヴェジタリアン用のメニューを用意しているところは無いに等しい。健康食品関係のお店ぐらいだろう。そういう環境が成立するのは。まあ、そういうところは概して美味しくはない。海外のホテルでは朝食にヴェジタリアン用のものが当然のように用意してある。これに初めて出会ったときはかなり感動し、これが当然だと考えたものだ。
 ただ、ぼくが好きな料理はインドや西洋のヴェジタリアンのものではない。インドのものはスパイスが多く極めて濃い味だ。西洋のものは肉は外しただけという印象。ぼくのヴェジタリアン料理は、要するに母が作ってくれた味だ。ヴェジタリアン料理と行っても一様ではない。

小さな夢 4/29

左の写真はラクノウで。中産階級か。

 4/28に夢をみた。出口無しの夢から敢えて醒めて、記憶を辿って確認した。ぼくのストレスの一部の原因を示すものだ。初めて会ったA氏であるが、何かぼくにいらだっている。そしてぼくがほんとうは行くべきところに戻ってゆく。女子学生がぼくに助けを求めている。彼女の方へ行くときではないのだが、彼女の思いを優先する。たぶん、ぼくの研究室で話し合う。その学生が卒業できないことを確認する。授業料をまた一年払わなければならないという。ぼくは途方に暮れている。女子学生は留年することに納得したようだ。その女子学生を改めてみて、ああこんな顔をしていたのか、と思う。それから、ぼくは戻って、ぼくが読まなければならない卒論の束を探すが見つからない。また先ほどのA氏が現れて、何か迷惑そうにしている。もう口頭試問の時間だ。ぼくは卒論を読んでいなかった。もう行かなければならない。出口なしの思いで夢から脱出する。なお、A氏というのはどこかで会った気もするが特定できないことを申し添える。女子学生も知らない顔だった。

水が出ない 4/29

 フィールドから午後7時前に戻る。シャワー室に懐中電灯と石鹸と櫛を持ってゆく。蛇もたぶんサソリもいない。下半身をちょっと塗らして石鹸を使い始めたところで、さて水が出ない。タオルを越中ふんどしのごとく、下げて、15mほど先の青年に英語で伝える。理解して貰えない。シャワー室に戻って、下半身の下着だけつけて、その青年に水が出ないと手振りで伝える。そういうことをして、暗がりで40分ほど待ったかなあ。中天に8日月が輝き、その下のジュピターも美しい。蚊取り線香にあたりながら、Aquaを飲む。水が出た。気持ちよかったあ。水と電気って凄いなあと思う。停電が続いてポンプで水が2階に上がっていないためだった。U氏がその恢復に下の家族に充電器を使うように要請してくれた。

煉瓦の材料 4/30

 31日まで今月があるように思っていた。明日は5月1日だ。今日まで歩いてインド人4名とサヘートとマヘートの周辺を歩いたが、明日は煉瓦工場と大きな川の河岸を車で巡る予定だ。小さなランドクルーザーだから常識的には5名だが7名で行くという。汗と誇りっぽい臭いが立ちこめるだろう。ぼくは便秘気味だから、ますます便秘になるだろう。ガスも気になる。と書いていたら、えーと、ちょっと楽になった。
 ここのトイレは日本の旧式のものと比べると臭くはない。便器と便との間に水を挟むようになっているからだ。十分に水を流すようにしたら、サソリなどを除けば問題はない。ただ暗がりでかがむ気には差し迫っていなければなかなかならない。これも便秘の理由だ。

左の写真はRapti川の自然露頭。白い縞模様はほぼ掃流堆積物に対応。その間の堆積物は水漬レス。このレス堆積物が煉瓦の材料となる。

 煉瓦の原料は沖積層とくに泥質の部分とされているが、ぼくは西にあるタール砂漠からのレスLoessが水面下に貯まったものを材料にしていると考えている。層理がなく石英などの鉱物が水磨されていない。ちいさなマンガンノジュールが多く分布している。煉瓦工場は原料産地内に立地し表面でほぼ枯渇したら移動してゆく。現河川の堆積物を知ることは過去を知る上で重要であり、また河岸の露頭を見ることも楽しみである。

 

 

 

この頃の天候 4/30

 今朝は寒くてどうしようかと思った。台風のような風が体に当たる。寒い寒いとバスタオルを体に巻き付けていたら、ふと、窓を閉めることを思いついた。開き扉を閉じたら、問題クリア。5時過ぎからやっと寝ることができた。外が何となく騒がしいので起きて時計を見たら7時40分すぎ。8時集合にしているからかなりまずい。8時15分頃に食事を終わって、さて、かなり雲行きが怪しい。一昨日の午後4時頃の雲行きと同じだ。出発を遅らせることにした。遠くの雷鳴がどんどんと近づく。空気が冷えて稲光が。オゾンが一杯の空気だ。呼吸が楽になる。この状態も30分ほどだった。いい休養になった。
 これを書いているのは午後9時半すぎだが、どうもまた雷鳴が聞こえる。ボツボツと降り出した。

Rapti River 5/1

 今日は車をチャーターして煉瓦工場、ラプティ川河畔に出かけた。水漬レスの認識がより高まった。秋の日本地理学会ででも発表しようか。11月の国際シンポジューム(関西大学考古学研究室主催)と銘打った集まりの準備運動がてら。4/23-5/1の間、昼休みを挟みながら、多量の試料を収集した。日本に帰って粒度分析や組成、さらに年代測定をするのが大変だ。他の研究も進んでいるし、えらいことになってきた。さて、ラプティ川を調査しているときに催してきた。ゆっくりと露頭が観察できないおそれがある。インド人に聞いたら、母なるガンジスに注ぐ川だから、直接は駄目だという。そこでそばの畑でさせていただくことにした。どうも野小便ができない。できなくなった。
 今の時期は川の水量が少ないので、牛が集団で易々と渡っていた。川には流れ橋が懸かっていて通行料を一人5ルピーほど取られるらしい。結局渡らず、此岸で良い露頭を見つけた。渡しの場所には藁葺きのお寺があって、水垢離の関連でお寺さんにお願いするのか。

 

 煉瓦工場は面白かった。写真を撮っていたらおじさんとおにいさんがやってきて、政府などの許可は出ているのか、などという、ということらしい。結局、ここの採土場は見られなかった。とはいえ、これまでに放棄された採土場は幾つか見たので何の問題もなかった。
 これとは別に、今日、ぼくの部屋を覗いた数名の連中は怖かった。朝来て、さらに昼にもやってきてぼくの部屋を覗いた。日本人が来ているということで、強盗に入るつもりなのか。実際、近くの集落が全住戸、銃で脅されて金品残らず?盗られて、その後は集落に銃を置いているという、お話もあるらしい。
 ウオッチマンがいるのだけど、杖一つのおじさんだし。ただ、昨晩は雷鳴轟く中で、ドンドンとぼくの部屋の戸をならし、外に干していた、下着とカッターシャツを渡してくれた。土砂降りだった。幸い、今日も来てくれているから、風邪はひかなかったようだが。
 明日はこの付近の遺跡巡りとUさんの友人のインド人K氏のご自宅にもお邪魔することになっている。

スイカと性 5/2

 昨日の巡検で市場を幾つか車で通り抜けたが、山のように積み上げられたラグビーボールのような形ではあるが黒と緑の縦縞の入った西瓜を何度も目撃した。欲しくて、Uさんにお願いして買って貰った。ぼくの最大の好物である。ビルマ寺のご家族に切ってもらって食べてたら涙が出た。ぼくが小学生の頃に、母や父と一緒に食べた情景が思い出された。どうもぼくがスイカを好きなのはそういう記憶と深く結びついているようだ。
 今日はU氏のインドでの親友のインド人K氏の奥さんの里に出かけた。車で1時間ほどであったが道がかなり凸凹していて疲れた。行く途中、ヒンズー教のお寺を2カ所回った。何れもシバ神を祀ったお寺で現職のペンキで壁が塗られ、荘厳さ、神々しさは日本人のぼくからすると感じられなかった。2000年以上続いた宗教であっても、現在の人々の今に生きている神だからだとも思われた。一つ目のお寺には、至る所に女性の性器をかたどった泉と思われる中央に男根が上に突き立っていた。原始信仰と深く結びついているようだ。もう一つのお寺はより新しく怪しかった。単純な5秒ほどの長さのリズムとメロディーがずーと鳴っている。殿堂に入ると床で4人が車座になって、携帯オルガン、数個の小さな鉦、一つの手のサイズほどの鉦、小さな太鼓をそれぞれ一人ずつならしている。正面には金庫の前にあるような金属の柵があり、錠前がかかっている。その中にシバ神とその配偶神が収まっている。これも原色に近い色使いの像だ。その左にひときわ健康そうなおじさんが肌を出して座っている。お賽銭は神像の前ではなく、そのおじさんの前に置いて、そんで、お菓子を貰うことになる。ぼくはそのおじさんが好きになれず、近づけなかった。このお寺の殿堂の前は広く、その更に前には大理石の階段があり、大きな池が広がっている。階段を下りると、おおきな鯉ならぬスッポンが数匹集まっていた。
 性的シンボルをあがめる風習は古くから日本にもある。男女が愛し結び会い子どもを授かるってことが、人間の幸せの最も大きなところだもんなあ。

家族と共同体 5/2

 このビルマ寺の家族の絆は大きい。他の家族でも同様であるようだが。プライバシーの差し障りもあるので家族構成は示さないが、都市に仕事を持っている息子さん夫婦であっても、家族でもう5日ほど滞在している。まだまだ帰らないようだ。その奥さんは甲斐甲斐しく家事を手伝っている。ここの娘さんは教師だが、出勤前に庭掃除をして料理をして出てゆく。長男の奥さんも教師だが食事の準備などをして出てゆく。この家族の世帯主の奥さんはまた凄い働き者だ。周囲に常に檄を飛ばしている。ここにはビルマからの巡礼僧だけでなく、周辺の聖地参拝のいわば観光客も宿泊する。周辺の寺からの参拝もある。なかなか忙しい。U氏によれば長男さんの子どもが産まれた時はそのお祝いで1000人余りがきて、全員に食事を振る舞ったそうである。食客も数名いる。まあ、忙しい。そして感性が豊かだ。
 今は収穫後の結婚シーズンで昼間、朝、深夜まで音楽が鳴り響き、花火も上がる。誇りっぽい崩れそうなバスに人がぎっしりと詰め込まれて、どこかに出てゆくし、やってくる。新郎の関係者が花嫁の集落まで移動する。それぞれの集落で前夜祭が行われ、花嫁の集落でパーティが深夜にまで及ぶ。直接関係のない人々も一晩で掛け持ちということも珍しくはない。
 家族は血のつながり、共同体は地の繋がりだ。人はこの繋がりを青年期には嫌う傾向があるだろう。そうは言っても古くは通常は帰ることができたのではないか。日本の今は帰るところがないという状況が生まれている。都会で暮らしていた者が北海道や沖縄や信州に老後の地を求めるのはその代償行為であるだろう。だが、そういうところへ行っても孤独に違いはない。ただ、自ら選んだという満足感が得られるのだろう。
 ほくは小学生4年〜5年のころ、時間が止まればいいと思った。いつしか爺ちゃん婆ちゃんを失う。父母を失う。兄弟はばらばらになる。すぐにそれはやってくる。それが耐えられないと思った。今、自分が父になって、子供達にそういう感情は持たない。子供達は自分たちの道を進んでゆくだけだ。ぼくは家内と取り残される。子供達に何をして欲しいという気持ちはない。一緒に住もうとも思わない。どこか別の地に住もうとも思わない。どこに行っても変わらないことを知っているから。2人から3人が産まれた。これは発展だ。ぼくが消えても、血が残るという気持ちはある。共同体も、結婚もいわば人間が継続するための便法だ。
 それにしても家族の死はつらいものだ。爺ちゃんを失った時は人は死ぬ、ということを深く感じた。恐ろしく思った。父を失った。父との1年余りの闘病生活を思った。深く反省し、残念に思った。母に慰められた。母を失った。再び、過ちを犯したことを恥じた。しかし戻れない。ぼくは父母をもちろん虐待した訳ではない。家内の協力を得てというか家内の力でともに暮らした。ただ、かつての健康な父母を求め、責めたことがあった。それを恥じるのである。父母がもとの父母でない弱い存在であることを最後まで認めることができなかった。父母の力、愛は、余りに大きかった。そういう存在にもう巡り会うことはできない。
 彼岸があるのならば、行ってみたい。そして父母とまた共に暮らしてみたい。あの小学生の時代の暖かな団欒を。

ラクノウへ、そして再び同じホテル(執拗なタッチで) 2004.5.5

 左の写真は各所に設置された選挙場、右は路側のゴミを漁る牛。

 まことに疲れた。ラクノウで本日選挙があるというので、4日の夕方、シラヴァスティを出て、車でラクノウへ。日本の昭和30年代でも信じられない交通ルールに疲れ切った。信号は180kmの間、一つも無かった。片側一車線だが、3車線または4車線状態となる。相手側車線に車が迫っていても、平気で追い越しにかかる。あわや衝突という事態は当然なのか。実際、事故を2件みている。クラクションは鳴らす鳴らす。パッシングは当然。お互いにパッシングしながら、相手車線に侵入し続ける。放射冷却でヒンドスタン平原の夜は深い霧に包まれるが、霜道などに入って見えなくても速度を落とさない。
 しかし、この移動も12時前に終了。U氏が選んだホテルは某ビジネスホテル。外から見ると赤い電気が目立って怪しい。部屋が開いているかどうか、チェックに入ったと思ったU氏がなかなか出てこない。喧噪の道路端の車の前で待機した。ぼくは何故かホテルに入る気にならない。 インド人K氏が車の荷物は問題ないと伝えてきたので、貴重品のカバンを持って何とか意を決して入る。
 案内された部屋に入るが、通ってきたホテルのカウンター、通路、部屋のセットが悪夢のデジャビュのように感じる。トイレに何とか入って思い出した。1997年にY氏に案内頂いた同じホテルの同じ部屋だ。室内にTVセットのように設置された藁がつまったクーラー、激しく騒音を吐き出すが強弱の調整が全くできない。7年前と同じだ。かつてのぼくの学生であったK氏と共に入った部屋だ。ブランケットが無いかと聞いたが無いという。シーツをみたら二つのベッドともに、炭の線(どうもかなりの汚れから生成されるもののようだ)が数カ所に大きくあり触ったら延びる。シーツ上には小さなゴミが散らばっている。カウンターに行って、シーツを代えるように言う。ボーイさんは気分を害しているようだ。より茶色のシーツであったが、別の部屋から剥がしたものだから、ゴミは載っていない。まあ、これに交換して、ピローケースを裏返しにする。シャワーにかかろうとしたが、出ない。水圧が足りない。4つの蛇口があって、一番下の蛇口から水がでる。石鹸もないので、茶色になったぼくのタオルで体の汗を流す。持参の香取線香をセット。天井のシールファンが回るが最小にしても風が強く音もうるさいので消す。クーラーの騒音はもっと凄くて、大雨の時にトタンの屋根の下にいるようだ。ただこれを消すと、外の車の音がうるさい。車のビームライトが部屋を照らす。というわけで、クーラーを点けてなるべく肌をシーツに付けないないようにして仰向けになった。睡魔が時折襲ってきたがほとんで寝ることができなかった。大雨の中で、阪神高速道路の脇に横になっていると想像してもらえれば、ぼくの憂い多い一晩を想像してもらえるだろうか。ちなみにU氏の部屋は道路からの騒音もなくクーラーも調整できるものであった。ぼくは何か悪いことをしたのかなあ。
 しかし、あり得ないだろうけど次回があれば、このU氏の部屋にしてくれてもここにはもう二度と来たくない。こんなことを書くのはホテルやU氏には失礼とは思うけど、やーぱり、ここは嫌いだ。思い返せば、ビルマ寺は清潔で、お坊さんもご家族も良かった。改めて、感謝する。
 翌日というか当日の朝、インド人K氏とラクノウの旧市街の中心地にリキシャでゆく。リキシャとは自転車の後ろに座席のある荷車をつけているものだ。急坂でもぼくとインド人K氏は降りない。インド人K氏が降りる必要がないという。リキシャ氏も頑張っている。仕方がないのかなとぼくは思う。人力の車に乗ること自体考えてみると変な感じだ。今日は衆議院選挙の日で、すべての店が政府の要請?で開けてはいけないという。現首相が再選されるかどうかで町が緊張しているという。露天商や食堂の多くは開いている。イスラムの城は開いていて、入場することができた。ちなみに外国人は100ルピー、邦人に対しては15ルピーとなっている。妥当かなと思う。リキシャからラクノウのかなり古びた町並みの写真を撮ることができた。完全に裸のおじさんが歩いていた。なかなか堂々としたものだった。本気で尊敬できた。店の屋根からかなり汚れきったボロ布が長く下に垂れ下がっている。それを気にせず商売をしている。昨晩、多くの人々が路側帯に寝ていたが、まだ寝ているものがいる。牛が日本の野良犬のようにゴミの山から食べ物を漁っている。人々は店の前にゴミがあっても全く気にしていないようだ。ゴミと人の町、っていう表現が悪いだろうか。
 これはこの商店街の成立と無関係では無いと思う。また、この考えを述べてみたいと思っている。

デリー大学の印象 5/?

 ラクノウの町をリキシャで回るツアーは曳き手の方の助けもあって、楽しいものであった。とはいえ、母が彼岸に出かけて以来の持病となった耳鳴りが、この町のホテル到着以来、ひどくなってきた(帰国後も続いている)。ラクノウ空港からデリーに夜到着。翌日の5/6には、ぼくが発見したと思われることの確認を取るためにデリー大学University of Delhiに出かけた。デリー到着の夜、Connaughtホテルの2Fでインターネット(衛星利用でかなり襲い)を利用した。これを管理する方は、技術もお持ちであったが怖いおじさんで、ぼくがパソコンを触ろうとしたら手で払いのけたりしたのであるが、1時間300ルピーの筈が、結局一晩中使っても好いと言って、午後9時半頃、ご自宅へ。ぼくは自由にその後も使えた。チップなどは一切お上げしておりません。あの人はいいおじさんだったのだ。まあ、この作業でデリー大学や他の資料の情報を得て、デリー大学に向かったのである。
 デリー大学には、南キャンパスと北キャンパス(メイン)がある。いずれにもでかけた。タクシーの運転手はあくびばかりしている。南キャンパスの後、北に行くと言ったら、文句を色々言ってきた。一日チャーターしている筈なのに。タクシーに乗っている間、色々話した。携帯電話が欲しいらしい。日本ではどれぐらい普及しているのかなどと聞いてきた。ぼくが持たないこと、持つとろくな事がないことを説明したが、納得しないようだった。突然、ぼくの顔からサングラスを外し、自分が掛けて、I am a heroなんて、言っている。もう一つ持っていないのか、と聞いてくる。幸い、持っていなかった。娘さんにとエアサハラで貰ったキャンディーをプレゼントするが、娘が喜ぶと言いながら、自分で食べている。

北キャンパスに到着してから、一緒にキャンパス内のピザレストランで食事をした。ここでは日本の価格と同じだ。ちょうど割引キャンペーンをしていたけど、2人で300ルピー弱であった。学生たちは裕福そうで、恋人や友人たちとピザとコカコーラを楽しんでいる。こういう階層がこの大学には来ているのだなと納得する。運転手氏と別れて、ぼくは図書館に入った。
 南キャンパスも北キャンパスも図書館の事務責任者の方の対応は開放的であった。自由に書庫を見せてくれるし、図書のコピーも自由だ。さすが、国際大学だけあると思った。何の紹介者もなく入ることができた。こういう土壌から好い研究や教育が産まれると思った。 ただ、図書の風化と埃と汚れそして脱落、未整理状況はすごかった。数冊触ると手が白くなし、埃も舞い上がる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

なお、上の3枚の写真は、デリー大学のキャンパス内を撮影したもので、左上はキャンパス内の道、左下は人類学教室の建物、右下はCentral Science Libraryである。

ぼくは弱いなあ そして空港の皆さんあんがと 5/11

 今回もインドへ行って体をこわした。7年前は到着後の数日、高熱が出た。今回は帰る前日の夜から高熱と下痢だ。飛行機では一食も摂ることができなかった。耳鳴りと寒気と下痢だ。それでもバッファリン1錠を2回に分けて飲んだら寒気はほぼ無くなった。関西空港に到着後、初めて検疫に申告した。社会的責任と考えた。以前に比べて明るい雰囲気だ。某大手の旅行会社の添乗員さんが職員を前に意味無く怒っていた。それを見ているのも面白かった。検疫係官のおじさんもおねえさんももの凄く親切だった。肛門に自ら検便の棒を差し込んでおわりだ。4日後に結果が来るという。コレラや赤痢だったらお電話を頂けるらしい。隔離ですわな。これは7日午後10時半ぐらいの話だが、今11日早朝だが未だ下痢は続く。パスポートチェックも親切、荷物のチェック中も後でも、大丈夫ですか、とやさしい声を掛けてもらった。皆、いい人だったんだ、と思う。当たり前か。幸い、千里中央まで、鉄道で帰ってくることができた。

貨幣価値の落差に基づく他国人との関係、そして観光の問題 5/11

 発展途上国に行くと、ローカルの労働力の価格は日本円からすると極端に低い。それは重宝なことであるが、その関係をお互いに気づいており、人間関係も支配・従属的になる。横柄になったり卑屈になったり、ことさら無視をしたり媚びたりである。こういう関係を結ぶ場は、ぼくにとってはかなり窮屈だし、場との関係を続けることすら苦しい。
 そういう国や地域で観光に従事し、かなりの利益を得ている人たちがいる。観光関係の業者だ。先進国内のような競争が無いために製品が洗練されていなくても流通経費がかからなくても、世界の消費市場に近い価格、またはそれ以上の価格で販売されている。日本での適正な市場価格を知らない者はそういう商売の形を支える場合がある。また、ほぼ詐欺まがいのそして詐欺そのものの行為の犠牲になる場合もある。世界市場に出ることが不可能な製品についても土産だからと現地の生活感覚からすると100倍またはそれ以上の価格で販売されている。観光業関連の労働者の中には、地道に働く人々とは比べものにならない額を手にする。積み上げた正当な技術によってではなく。
 観光や旅行の音の響きは悪くない。ただ、とくに海外の観光地にゆくと、観光や旅行に対して、ぼくは上述のような思いを持つことが多い。ネパールのかつてのシェルパ族は、現在では高度な登山の補助よりも、ハイカーの案内役とその宿泊所経営で、高収入を得ているようだ。その子供達は海外で活躍することを現実の夢としている。観光に関わるところから、低い経済環境を突破してゆく、という効果は確かにあるのであるが。

検疫から入院へ 5/12

 このシリーズはこれを最後にしたい。12日の午前11過ぎに自宅に検疫の結果の連絡がきた。赤痢菌が検出されたとのこと。症状が残っていたので入院することになった。今日はその一日目だ。ずっとこのページに写真を入れる作業をしていた。食事は通常に戻っていたので、全粥の食事に戻るのはつらい。以前もこういう症状はあったが、たぶん赤痢菌に由来するものだ。最後のラクノウで消耗したのが発病の原因だろう。保菌していても、体力があれば克服することができるのだろう。幸い、大学に行く必要がなかったし、出かけることもなかった。
 今、隔離中ながら、TVも見ているし、体調もいい。熱もなく、下痢もほぼ改善している。これは治療の結果ではなく、入院前の状態だ。しかし、自己申告して良かったと思っている。この部屋で最低2泊だ。退院はほぼこの期間後に確実だ。入院した病院が新築後まもないこともあって、快適だ。保健所の保険士さんと最寄り駅で会ってそのまま入院したが、全員凄く親切だ。今後、いい仕事をしたいと思ってしまう。クラビット錠(100mg)を夕食後から服用。

 追伸:今朝、5/13に退院が可能なことがわかる。今日午後に退院だ。明日の仙台での恩師のパーティを急遽欠席することを朝、家内に電話するように伝えたが、いずれにしろ、出席は見合わせた方がいいだろう。

 で、退院の後、Hiroでコーヒーとチョコレートケーキで楽しむ。

以 上