いとやさし (千里地理No. 80 伊東先生退職記念号)

木庭元晴

   数年前,日本地理学会で演壇に立ったら伊東先生,松井幸一さん,斉藤鮎子さんが居た。にこにこ。この時の発表テーマは,古代飛鳥の測量法の復元であった。さらに一昨年,初めて人文地理学会で演題に立ったら,にこにこと伊東先生が座って居られた。発表後には,伊東先生が歩きましょうと誘って頂いて,京大キャンパスから吉田山から真如堂本坊前へ。ここに掲載した写真(このweb-siteでは掲載したものではなくて元の画像を示す)は,紅葉真っ盛りの三重塔の前でのツーショットである。一浪しても自分の不甲斐なさに泣いて以来の吉田山であった。真如堂からタクシーで今風の活性化が進む三条通りをご案内頂いた。ちなみにこの時の発表テーマを軸に『飛鳥藤原京の山河意匠』を出版した。いずれの発表も伊東先生に関心を持ってもらったものである。
 遡って,高橋誠一先生ご存命中,ぼくは何かを告げるために高橋先生の個人研究室を訪ねた。二人だけで相談したかった。その中味は覚えていないが,まだ話す前から木庭さん怖いとか言って,高橋先生が伊東先生に来てもらうとおっしゃって内線電話を始められた。ぼくとしては凄く驚いて早々に引き上げた。伊東先生への信頼が深いことはまあ分かったのではあったが,高橋先生の思いが理解できず,いまなお非常に残念に思っている。
   さらに遡って。ぼくが関大に招聘された1984年のこと。山崎教授の看板がある個人研究室に入って,愕然とした。前任の山崎壽雄先生の資料類が本棚にそのままになっている。在職中に亡くなって奥様が教室に託されたようで,亡くなって二年間,そのままになっていた。まずは捨てるものと教室に保管するものに分けるのが大変だった。山崎先生は農林水産省の役人で土地分類図などの企画責任者などを歴任され,山口大学を経て関西大学地理学教室に来られた最初の自然地理学担当者であった。思いが詰まった資料を捨てきれなかった。そういうことを伊東先生に以前,お話ししたかも知れない。
   つい最近,伊東先生からぼくの無神経ぶりを証明するご体験をお聞きした。伊東先生は,地理学教室創始者末尾至行先生のご後任であった。ぼくは関大赴任以来,毎年のように海外調査に出かけていた。伊東先生が入る予定の木庭の部屋は全く木庭の資料で一杯であった,そうな。末尾先生の個研は棟の端にあって少し他の個人研究室より広かった。末尾先生が木庭君は荷物が多いから,ぼくの部屋に移りなさいと言われていた。にも関わらず,木庭は引っ越していなかったのである。この文を書いている今考えてみると,ぼくが海外に立つ前には末尾先生の部屋は空いていなかった。それで引っ越せなかった。その先に思いが及ばないのがぼくである。伊東先生が大荷物を持って引っ越してきたら,部屋にはぼくの荷物が一杯で入れなかった,ということになった。
   伊東先生は68歳でのいわば早期退職を決断された。ぼくは70歳での退職予定なので二年早い退職である。その決断の過程はわからない。わからないが十分の展望を持ってのことだと思う。そしてこのたびのご退職のカウントダウンの道筋をしっかりと立ててこられた。今回のご退職記念論文集もその一環である。伊東先生の直接指導した学生だけでなくその周辺の卒業生や院生にも発表機会を提供するという意図で計画実行された。このほど出た文学論集もその一環と思われる。周辺の人々を支えたいという気持ちの表れである。
   いま,つくづくぼくとの違いを感じている。そういう生き方をぼくはしてこなかった。今頃そんなことを言っても後の祭りである。この文は,伊東先生のほんの一部しか見ていない者の戯言ではある。とはいえ,共通するものもある。伊東先生もぼくもベ平連またはベ平連活動の参画者であった。 (Feb. 11, 2019記)