Feb. 3, 2018

模倣から自己表現への陥穽 (千里地理2018年春号巻頭)

 いま,寂れたカフェでサンドイッチを食べ終わった。初稿を出してきた満足感にある。最初の学術論文と言えるものは卒論の一部を東北地理(現季刊地理)に投稿したものである。初稿を修正する上で,中田高先生(現広島大学名誉教授),若生達夫先生(現宮城教育大学名誉教授),牧田肇先生(現弘前大学名誉教授),そして高橋達郎先生(現岡山大学名誉教授)には親身にご指導いただいた。この論文を経て一応の研究者の仲間入りをすることになった。

 卒論では,特に指導教授であった米谷静二先生(鹿児島大学名誉教授,俳人百選の一人)と,その論敵であり調査事故で当時若くして亡くなった武永健一郎,明神礁の爆発で亡くなった田山利三郎,半沢正四郎,そしてUSA地質学会会長をされたR.J.Russellなどを中心に読んだ。卒論は奄美群島の沖永良部島で実施したが,この東北地理の論文作成中に自分の研究手法の未熟さを痛感した次第である。

 卒論提出後,琉球列島のほぼ全域の第四紀層と海岸段丘の研究をして,電子スピン共鳴法と放射性炭素年代測定法を使って,沖縄県の海岸段丘および隆起珊瑚礁の年代を決定し,沖縄県土地分類図を作成し,課程博士号も得るのであるが,卒論時の懸案を放置してきた。いよいよ,地球科学的な研究の時間がなくなる驚異を感じて,一年先輩の川口昇さんと相談した。学部時代,川口さんの存在は大きかった。3月末から4月初めにかけて潮が昼間かなり低下する。一年でも最も大きく下がる春の大潮である。この最も良い時期に,一週間ほどの再調査にご同行頂ける。

 自然地理学の教員をしてきた人々が少なからず人文地理や地理教育や学史に走る。若い時はこの現象は学問からの逃げだと思ったりしていた。その流れに違うことなく,ぼくも飛鳥研究に没頭している。ぼくの学生時代,(中略)S先生は事有るごとに,院生の集まる場で批判されて,ぼくなぞもご本人を前にして地形学は成因論ではないでしょうか,なんてほざいたこともあった。

 知人に売れない芸術家がいる。研鑽を積んで本人の人格が赤裸々に出てきた。研究者も若いときは模倣で学会の流れに則っているのであるが,本人のというより学問の限界に,遅かれ早かれ気付く。そこではじめて,自分の頭で考えるようになる。試行錯誤しつつ研鑽を積むほど個性が出てくる。まあその個性が曲者ではある。

 ところが,である。2012年頃からいやいや始めた飛鳥の自然研究?ではあったけど,次から次へと発見が続いている。一昨日でも大きな発見があった。一つの疑問をまじめに考えると必ずと言って良いほど新たな発見がある。この3月末の日本地理学会でも口頭発表する。3月末発行の関西大学博物館紀要にも,月刊地理にも異なったテーマの成果が掲載される。今日の初稿の提出先は関西大学出版会である。書名はいまだ決めていないが予算年度の縛りからこの三月末には発行される。これまでの研究成果をまとめたものである。この本の,推理から確証へと題したまえがきの内容は昨年の千里地理研究会で発表した。その始めに新たに次の一つの段落を付け足した。

 『日本書紀』神武紀によれば,天皇が熊野から入って地元の豪族との戦いに疲弊していた際,夢に高皇産霊神が現れて,天香具山の赤土を取ってきて云々というお告げに従った。その後は破竹の勢いで勝ち進み,ヤマトに入る。古代世界の覇権を得て飛鳥宮都の谷で飛鳥文化が花開くのであるが,この谷に天香具山山頂を通過する天の北極軸が貫通していた。飛鳥時代の始まりの推古期に建立されたとされる谷南端の橘寺から,飛鳥時代の終わりの文武朝に建立された谷北端の大官大寺まで,伽藍の中心をなす仏塔跡が正しく通過している。この天香具山軸を筆者は発見した。天香具山信仰はヤマト王権のものであり,天の北極軸は大陸の価値観であって,この天香具山軸は当時の価値世界を如実に表している。このほか,これまで誰も見いだせなかった飛鳥時代の世界観と都市デザイン力を感じてもらえると思う。再現性を確保するために導出過程を示しているところもあるが無視頂いても筆者の論理を理解する上で何の問題もない。

 上の段落を読んで頂いても内容は全く想像できないかもしれない。一例を示そう。これまでの考古学では,飛鳥,藤原,そして奈良盆地では,東西方向および南北方向の地割りや道路そして伽藍の矩形は,ほぼ一貫して多少西に振っていることがわかっている。ぼくはその理由を知っている。まだ発表しないけれどもすでにぼくのこれまでの報告に臭わせている。それよりも,天香具山山頂を通過する天の北極軸が飛鳥宮都の谷に百年余り生きていたことの発見を重視してきた。飛鳥について,これまで誰も想像できなかった発見をもう少し続けることができると思っている。

以上