関西大学博物館紀要, No. 25, 2019MS download
教員免許状更新講習を2018年10月6日土曜日に明日香村で実施する。木庭の過去数年の研究成果を踏まえて教材を作成した。すでに出版された次の本を参考にしていただきたい。この本に掲載されている図などもここに示している。出典を明記していただければ,ご利用いただいて問題ない。
木庭元晴,2018. 飛鳥藤原京の山河意匠 -地形幾何学の視点- 関西大学出版部.
アマゾン で,木庭元晴,で検索してください。
<講習テーマ>
飛鳥時代の仏塔や天文台そして藤原宮は,推古期に設置された天の北極(真北)軸や大和三山の太極(垂心)に精緻に配置されていた。隣接する飛鳥川と高取川の付け替えは斉明期に施行された。記紀やこれまでの研究では全く触れられてこなかった歴史的事実を精緻な地形情報と考古遺跡の分布から,案内者(木庭)は,はじめて明らかにした。この日帰り巡検を通じて,飛鳥藤原の都市計画軸に関わる研究過程を理解いただいて,今後の教育に活かしていただければと思っています。
参考資料: 木庭元晴,2018. 飛鳥藤原京の山河意匠 -地形幾何学の視点-. 関西大学出版部.
目 次
推理から確証へ
第1章 最近公開されたGISデータベース情報を使って得られた飛鳥及びその周辺の古代 〜更新世末期の自然環境
第2章 飛鳥時代推古朝による天の北極及び暦数の獲得
第3章 天香具山山頂を通過する天の北極軸を基軸とする古代飛鳥寺域と水落遺跡の飛鳥川争奪前後の占地
第4章 飛鳥時代の水落天文台遺跡から観測された天球
第5章 飛鳥時代斉明期の高取川見瀬付け替え
第6章 藤原京の占地根拠となる大和三山の太極の発見,そして飛鳥京の寺院等遺跡から得られた太極由来の中ツ道軸と天香具山軸との共存
明日香村観光サイトにiPhoneまたはGoogle play用の音声ガイドサービス「飛鳥京歴史ぶらり」が公開されています。
https://asukamura.com/?page_id=75
できれば,前もってインストールして機器を持参ください。お持ちでない方はもちろん問題ありません。これを使うことが必須ではありません。ただ,飛鳥時代の遺跡地図(飛鳥京絵図)とスマホ利用者の現在地との関係などを知ることができます。 ただし,図は漫画的で実際の位置からかなり歪んでいます。
明日香村にはフリーWifiスポットがあります。その場所は,次のページに示されています。
https://asukamura.com/?page_id=8272
ただ,これでは位置認識に不便で,wifiやインターネットではなくて,次に述べるスマホ自体のgps機能を使った方がはるかに便利です。
講習当日より前に,ネットで地図をキャッシュして,ネット環境のない環境でも電子地図上に現在地を表示したり,マーカーを設定することができます。
推薦したいフリーソフトはGeographicaです。
http://geographica.biz
このページに機種に応じたダウンロードサイトのリンクが示されています。ダウンロード中の,
"Geographica"使用中に位置情報の利用を許可しますか?
などに対して許可を選択してください。
なお,利用法のpdfが次に公開されています。
http://geographica.biz/tmp/geographica_easy_use.pdf
このサイトからダウンロードして,次のプロセスを実行して,現地にご持参ください。以下の文はすべて上記pdfにあります。
1. Geographicaを立ち上げると富士山頂の地図が表示される。その最上部の座標などの情報が表示されている部分を指で左にスライドすると,検索欄が現れる。
2. ここで,明日香村と入力してください。表示結果は1件だけで,これにタップすると,飛鳥稲淵殿跡付近に飛びます。
3. この画面で1本指を使って下方にドラッグして,より北の方を見て行くと,橘寺本堂や明日香村役場の位置表示を見ることができます。明日香村役場が面する東西道路を西にとって600mほど行くと,巡検の最終目的地で試験実施会場である川原の明日香村中央公民館があります。
4. 明日香村とその周辺の地図をピンチアウトによって拡大したり,ピンチインによって縮小したり,ドラッグやフリックによって移動したりして,少なくとも明日香村全域について,詳細に広域に地図を表示してみてください。これがスマートフォンのキャッシュメモリーに保存されて,ネット環境なしで現地でこの地図の利用が可能になります。
なお,用意されている地図は,最初に表示される国土地理院の2万5千分の1地形図(陰影図)以外に幾つかの地図があります。画面左上の橙色のメニューボタンを押すと,サブメニューが現れ,地図ボタンを押すと,国土地理院の標準地図が選ばれているのがわかります。この3行下の航空写真をタッブして,メニューボタンをタップしてください。表示が薄いのですが,航空写真(正確には空中写真)地図が現れます。上述と同様に,奈良盆地全域が見えるように広域(縮小)表示したり,飛鳥付近では田んぼ一枚一枚が表示されるように詳細(拡大)表示してください。
タッチパネルの操作法は次のサイトを参照してください。
http://www.apollomaniacs.com/ipod/howto_touch_touchpanel.htm#タッチパネルの基本操作
5. 現地に行く前に,自宅などネット環境がある場所で,マーカーを一つだけ登録しておきましょう。
5.1 まずはGoogleマップで,明日香村中央公民館,を検索して,位置を表示して,それを見ながら,その位置をGegraphica画面中央の十字マークにドラッグしてください。
5.2 画面右手の上から4番目のマーカー追加ボタン(Googleの地点記号の右上に?)をタップしてください。名前などの入力枠が出てきますので,名前欄に,明日香村中央公民館,としてください。5.3 入力後,この場所には菱形内に?記号が紫色で描かれたマーカーが登録されます。これをタップすると,名前と経緯度と海抜高度,さらには,スマートフォン利用者の現在地からの磁方位,直線距離,比高が表示されます。表示を消すにはこのマーカー以外の地図上の任意の点をタップしてください。
現地では,ご自分で必要と思われる場所で新たなマーカーを登録してください。
集合日時: 2018年10月6日(土曜日)午前10時
集合場所: 明日香村農産物直売所 あすか夢の楽市
自家用車利用: 次に述べる公共交通が不便のために,自家用車が便利です。行楽シーズンであるために,この楽市の駐車場が確保できない場合があります。駐車場は有料の場合1日500円程度です。
駐車場情報: 集合場所の「あすか夢の楽市」,以下,近いものから遠いものへ,飛鳥川を隔てた甘樫ヶ丘駐車場(500円),飛鳥歴史公園甘橿丘地区川原駐車場,豊浦駐車場 0744-54-4577など。自己責任でお願いします。
公共交通利用に関する注意点: 近鉄(大阪阿部野橋発または京都発)の橿原神宮前(F42またはB42)下車,東改札口を出て,右手のタクシー乗り場の前付近のA番乗り場(奈良交通明日香周遊バス(赤かめ))から出ます。切符は,明日香周遊バス1日フリー乗車券(大人650円)がこの東改札口で購入できますが,予定利用ルートは,橿原神宮前から公共交通を利用される方については,行きは橿原神宮前—飛鳥,帰りは中央公民館—橿原神宮前ですので,窓口でお聞きください。参照資料は次のものです。
https://asukamura.jp/kame_bus/pdf/timetable_aka_180401.pdf
発車時間は1時間間隔で,集合に最も適当な便は,午前9時36分発で10分ほどのちに到着します。「甘樫丘」の次の「飛鳥」で降車してください。「飛鳥」の方が近く,下車側のバス走行方向に見える広場が集合場所です。
https://asukamura.jp/kame_bus/pdf/timetable_aka_180401.pdf
赤かめバス停分布図
https://www.navitime.co.jp/bus/route/00009799/23他%E3%80%94明日香周遊:橿原神宮→大仏→岡方面%E3%80%95[奈良交通]
解散日時: 同日午後5時頃
解散場所: 座学と試験を実施する明日香村中央公民館
634-0141奈良県高市郡明日香村大字川原91−1 電話0744-54-3636。ここでは近隣の小学校スペースとともに,広い駐車場が確保されております。集合場所との距離がありすぎますが,朝からの駐車が可能とのことです。
公共交通利用に関する注意点: 中央公民館に面した図書館の前から,16時47分に上記の赤かめがでます。自家用車で来ている方も,駐車している場所の最寄りのバス停まで乗ってください。これを逃すと,ご自宅によっては,当日中の帰宅が厳しくなる可能性があります。このバスは周遊して16時51分に中央公民館近くに戻ってきますが,16時47分に乗る方がかなり乗り場が近くなります。このバスは橿原神宮前の東口までまいります。木庭は,集合場所の「あすか夢の楽市」に近い飛鳥で下車します。
集合場所のこの楽市になります。天候に恵まれることを祈りますが,晴天の場合,石や地面の上に腰を下ろすことも考えられます。楽市には幾つかの椅子がありますが足りません。お弁当ですが,木庭は地元の婦人会のお弁当などが用意されている楽市で購入するつもりです。午前10時には十分に残っていると思っています。楽市にはトイレ小屋があります。
交通費+昼食代(各自)+橘寺拝観料(350円)
交通費の内訳は,橿原神宮前からバス利用の場合,最大650円です。神宮前から飛鳥までと,中央公民館から橿原神宮前まで。自家用車で集合場所(あすか夢の楽市)付近に駐車場利用の場合,無料駐車場が確保されない場合500円。いずれにしろ,中央公民館から駐車場所までのバス代金は必要になります。
1. 水落遺跡周辺,2. 飛鳥宮跡周辺,3. 橘寺周辺の三地区からなります。1. 水落遺跡周辺の最後の飛鳥寺西門などでの作業の後に,田園中の小道を400mほど南下して,2. 飛鳥宮跡周辺,に向かいます。作業終了後,さらに400mほど南下して,3. 橘寺周辺に向かい,作業の後,明日香村中央公民館に入って,座学と試験を実施します。
下記のリストアップしたテーマだけ見ても内容は想像できないと思います。ご関心がある場合,次の本をアマゾン.comなどで,ご参照ください。本巡検でご紹介する知見はすべて木庭のオリジナルで,確証も得ております。
木庭元晴,2018. 飛鳥藤原京の山河意匠 ー地形幾何学の視点ー. 関西大学出版部(2018/4/9発売). 3888円。
なお, 全ルートを次に示す。Google Earth上に表現したものである。
資料図表1
あすか夢の楽市の駐車場に接して, 水落遺跡がある。発掘結果に基づいて, 中央を除いて, 24本の木の柱が設置されている。
東から甘樫丘に向かって撮影 Aug. 31, 2018
この位置からすると, 水落遺跡の南北位置は甘樫丘と繋がりがあるに違いないと感じる。
資料写真1
下の写真は,水落遺跡の中心から, 北方向には天香具山, 西方向には甘樫丘を眺望したものである。
資料写真2
木庭(2018, p. 141, 図12)
下の水落遺跡の遺構実測図には,筆者の作業から, 遺構中心を求めている。
資料図表2
木庭(2018, 第3章, p. 72, 図2): 遺構実測図
次の表に示すが(計算法などはここでは省略), 上の図の対角線の交点である柱心交差心PiCと天香具山山頂の東西軸 easting 座標値の差は, -16692.43 - (-16692.49) = 0.06, つまり, 6cmにすぎない。 つまり, 天香山真北軸上に水落遺跡基壇中央が乗っている。
資料図表3
木庭(2018, 第4章, p. 113 表1): 表1 水落遺跡基壇中央4心の座標値
このことは, 水落遺跡がこれまで言われてきたような漏刻設置のための場所ではないことがわかる。位置の極めて高い精度が求められる場ということになる。つまり,天文台である。天文台での天の北極を周回する星の観察によって,時刻だけでなく, 主に元嘉暦との対応関係がまずは取られ, 正確な日付と時刻が求められたと考えて良い。
山頂から大和三山と飛鳥川扇状地の地形を眺望する。所要時間は,あすか夢の楽市から山頂までゆっくりと歩いて15分間ほど。途中, 万葉集にみえる幾つかの樹木にメッセージがある。 クヌギやカキなどからなる里山的植生で, この登山道のために植樹されたものと, 整備前の元々の植生が混在している。
畝傍山 Aug. 25, 2018撮影 星の王子様に出てくる象が入っている帽子のような山。甘樫丘から北西方向。
資料写真3
耳成山と天香具山 Aug. 25, 2018撮影
左手の円錐形の山が耳成山, この右手の横に長い山の最高点付近が天香具山。
耳成山と天香具山との間の耳成山寄りが北方向。藤原宮跡は耳成山方向の軸線上の芝生付近。
資料写真4
飛鳥寺西門跡 Aug. 25, 2018撮影
甘樫丘の森林上縁を右から辿って水田が切れたところの右手前から左奥に続く幅広い道の部分。
資料写真5
この節は, 木庭(2018, 第6章)に基づいている。従来のアカデミズムという因習的かつ感覚的なロジックを排しており, 関心の在られる方は是非, 本書を読んでいただきたいと思っている。以下, 極めて断片的に記述する。 まずは,御井の歌の訓読を次に示す。
『万葉集』巻一の五二番歌「藤原宮の歌」 = 「御井の歌」(詠人知らず)
訓読: やすみしし 我ご大君 高照らす 日の皇子(みこ) /荒栲(あらたえ)の 藤井(ふぢゐ)が原に 大御門(おほみかど) 始めたまひて /埴安(はにやす)の 堤の上に あり立たし 見(め)したまへば /大和の 青(あを)香具山は 日の経(たて)の 大御門に 春山と 茂(し)みさび立てり /畝傍の この瑞(みづ)山は 日の緯(よこ)の 大御門に 瑞山と 山さびいます /耳成の 青菅山(あをすがやま)は 背面(そとも)の 大御門に よろしなへ 神(かむ)さび立てり /名ぐはし 吉野の山は かげともの 大御門ゆ 雲居にぞ 遠くありける /高知るや 天(あめ)の御蔭 天(あめ)知るや 日の御蔭の 水こそば とこしへにあらめ 御井(みゐ)のま清水
(University of Virginia Library, 1999a: 『万葉集』 巻一 雑歌)
上の訓読の次の部分:
/大和の 青(あを)香具山は 日の経(たて)の 大御門に 春山と 茂(し)みさび立てり /畝傍の この瑞(みづ)山は 日の緯(よこ)の 大御門に 瑞山と 山さびいます /耳成の 青菅山(あをすがやま)は 背面(そとも)の 大御門に よろしなへ 神(かむ)さび立てり /名ぐはし 吉野の山は かげともの 大御門ゆ 雲居にぞ 遠くありける /
の木庭の意訳を次に示す。
天皇が香具山を直視される,その上に架かる日を直視される,これを日の経という。天香具山の真上に日が達して,香具山の影が手前に長く伸びる。次に,左頬に日を浴びつつ右手直角方向に畝傍山を直視される。これを日の緯という。天皇が直視される日の背面には耳成山が控えている。そして,天皇が直視される香具山上の日の下(かげとも=)には天武天皇と過ごされた吉野の山がある。
木庭によれば, 不老不死の東海の三神山, 蓬莱, 方丈, 瀛州に準えられた大和三山から求めた垂心が大和三山の太極にあたる。その根拠は,万葉集「御井の歌」に求めることができる。 この太極は, 藤原宮の大極殿と朝礼院の境界をなす閘門にほぼ一致している。
次の図は, 「御井の歌」に示された大和三山頂上から垂心を求めるプロセスを示している。
資料図表4
御井の歌の儀式を次に絵で示す。
これは,木庭の上の意訳の次の部分である。
天皇が香具山を直視される,その上に架かる日を直視される,これを日の経という。天香具山の真上に日が達して,香具山の影が手前に長く伸びる。
資料図表5
木庭(2018, 第6章, p. 190, 図1)
次の絵は,上の意訳の次の部分にあたる。
次に,左頬に日を浴びつつ右手直角方向に畝傍山を直視される。これを日の緯という。(下の図)
天皇が直視される日の背面には耳成山が控えている。(上の図に共通)
そして,天皇が直視される香具山上の日の下(かげとも=)には天武天皇と過ごされた吉野の山がある。
(上の図に共通, ここでは図を示していないが, 耳成山から天香具山を通過する線分の延長に正しく吉野宮がある。今後, 発表予定ではある。)
資料図表6
木庭(2018, 第6章, p. 194, 図2)
次の写真は河川争奪地点の現状を示している。現飛鳥川は手前から左手奥に流れている。これは争奪によるもので, それ以前は元飛鳥川がこの奥の雷丘の右手を流下していた。
Aug. 25, 2018撮影
資料写真6
上の写真の場所は, 次の図のP点の部分である。等高線間隔は1mである。北流する元飛鳥川が争奪されて,現在の飛鳥川になった。
資料図表7
木庭(2018): 飛鳥川争奪の発見から、斉明期の付け替えの確証へ. 月刊地理, Vol. 63, No. 4, pp. 78-85, 口絵写真G. この図1.
下のブロックダイアグラムはW.M. Davisによるものを基図としている。 木庭(2018, 月刊地理)のp. 78の抜粋を次に示す。
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この報告を進める上で、河川争奪の 解説が必要であろう。地形輪廻説を提唱したデービスによる図2上図では、 大陸域に見られるケスタ地形をなす流域にあって、その主要河川に深い谷が迫っている。下図で は上図の主要河川に小流域の谷頭部が到達して、上図の主流が構成していた流域での急激な下刻が始まっている。 上図の主流はいわば図1の元飛鳥川で、争奪した河川は現在の飛鳥川にそれぞれ対応している。下図の争奪の肘の 屈曲部が図1のP点(○)に対応している。(下に示した)図2では主流の右岸から争奪されているが、図1では主流の左岸から 奪されているという違いはある。図1のP点(○)の北に 続く丘陵列は、元飛鳥川と飛鳥川の分水嶺をなす。図1の 等高線を読み取ると、元飛鳥川は200mほどの幅を持っ ていたことがわかる。この争奪地形が自然のものか人為的 なものなのかは、筆者はこの争奪に出会った2012年以来、確証が持てなかった。
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資料図表8
木庭(2018): 飛鳥川争奪の発見から、斉明期の付け替えの確証へ. 月刊地理, Vol. 63, No. 4, pp. 78-85, 口絵写真G. この図2.
下の写真は争奪P点から少し上流側の, あすか夢の楽市=水落遺跡に近い甘樫丘への橋のたもとから撮影した。Aug. 25, 2018
飛鳥川の右手=左岸は,左手=右岸より低い。水落遺跡が載る左手の地形面は飛鳥川線状谷の河岸段丘c面terr_cで, 右手の青い屋根がある住居や水田, 果樹園が載る地形面は河岸段丘d面terr_dである。飛鳥川争奪時期は, この位置関係ゆえに, 水落遺跡よりも遡ることになる。 つまり, 次の日本紀の記述から水落遺跡が成立したとされる斉明六(西暦660)年が, 争奪の上限年代となる。 なお,d面は事実上, 現飛鳥川の氾濫原にあたっている。
「又 皇太子 初めて漏剋を造り 民に時を知らしむ」
資料写真7
争奪時期については, 後述する。
下の図4のごとく,飛鳥寺域(奈良県考古遺跡データベースでの範囲を薄いオレンジ色域の赤斜めグラフチェックで表示している)での伽藍配置は西偏している。飛鳥寺造営時には, 仏塔を中心軸として東西縁辺は等距離にあったと考えられる。この図のKagu-yama axis 天香久山軸が飛鳥寺域の西辺と考えるのである。天香具山軸と飛鳥寺はこういう形で関わりつつ,造営された。飛鳥寺伽藍の仏塔心を通過する中心軸に関わって, 飛鳥寺域東辺との距離と飛鳥寺域西辺との距離が一致することになる。
資料図表9
木庭 (2018, p. 210, 第VI章)の図4 飛鳥京に見られる寺院遺跡と皇居遺跡の天香具山軸と中ツ道軸との繋がり
飛鳥寺造営の際には,天香山軸上には元飛鳥川の氾濫原があった。 飛鳥寺を天香具山軸と関連づけるために, 飛鳥寺仏塔中心軸を西縁を天香具山軸とする東西等距離域に境内を設計した。
その後の価値転換=大和三山の太極決定による中ツ道軸導入, によって, 境内西方が切断され, 1956年の発掘で得られた伽藍群が境内域の中心軸から西偏する結果となったのであろう。 いわゆる飛鳥寺西方遺跡=槻の木広場は, 当時の飛鳥川, つまり, 元飛鳥川の氾濫原にあたり, この氾濫原をも飛鳥寺境内として設置されたのである。
あらたな価値軸の転換によって, 飛鳥寺境内西部は切断された。 それを補償するかのように 飛鳥寺の四門のうちで, もっとも立派な西門が造営されたと考えられる。正門は新たな価値軸である中ツ道に直接面するようになったのである。 その発掘結果の一部を,飛鳥寺西門跡で見ることができる。
下の写真:
飛鳥寺西門跡から現飛鳥寺を望む。Aug. 25, 2018撮影。
奥のほぼ中央の伽藍は,安居院(あんごいん)本堂で, 飛鳥時代の飛鳥寺の仏塔心はこの右手(南側)の庭にある。安居院本堂は,飛鳥時代の飛鳥寺の中金堂に位置している。
手前の石垣の左右(南北)方向の高まりには平たい丸石が2個配置されている。これは八脚門であった西門北西部の控え柱2本(距離は3.5m)の位置を示している(後に詳述)。
参考: 安居とは, 僧が一定期間、外出を避けて修行に専念すること。陰暦四月十六日に始まり、七月十五日に終わる。夏(げ)安居。雨(う)安居。〈梵〉v?r?ikaの訳で雨季の意。ヒンズー教で陰暦月の始まりを満月後にするのはインド北部域が主であり, 仏教とつながるのではないか。 飛鳥寺は現在, 真言宗豊山派に属します。
資料写真8
下の図は発掘結果に基づく復元図(明日香村製)である。この左手が北方向で,手前の門が八脚門の西門である。
資料図表10
出典: http://www9.plala.or.jp/kinomuku/asukadera.html
次の図には八脚門がわかりやすく表示されている。
資料図表11
出典: 社寺建築の豆知識
「三間で門柱(本柱)が4本ある門です。4本の門柱の前後に控柱(ひかえばしら)が計8本あることから「八脚門」と呼ばれます」
下の図:
1996年には,1956年の調査結果の一部の検証が実施された(奈文研, 1997)。この図の右下の2x3のグリッドの補助線が入ってシェーディングされた部分が西門遺構にあたる。このシェーディング域東辺には, 想定される屋根からの雨落溝が1956年に検出されている。1996年の調査では, 前述の八脚門の北西隅の控え柱跡が検出されている。下の図のシェーディング域の北西部の濃いグレーの2個の擬似円で示されたところである。
「1956年の調査によって, 西門は礎石建ち八脚門と推定され,正面11.3m(高麗尺32尺), 奥行き5.3m (高麗尺15尺),推定基壇規模が正面13.8m, 奥行き9.3mに復原された。正面の柱間は中央だけが4.2m (12尺), 両脇が3.5m (10尺)で,中央間が広い。(中略)南門は正面8.8m, 奥行き4.6mで, 西門の方が大きい」(p. 44 左段)。「1956年の調査では,基壇の一部および南北3列ある柱のうち, (図のように)棟通りと東側柱筋の合計7箇所で柱位置を確認」(p. 44 右段)されている。「今回は,(前述のように)西側柱筋の柱位置2箇所を確認し,八脚門を確定した。(中略)北西隅の礎石堀形は, 直径1.3m, 検出面からの深さ15cmで, 黄褐色山土が版築状に詰まる」(p. 44 右段, p. 45左段)。
上述最後の引用について, 確認と注意喚起をする。 この引用部の 「西側柱筋の柱位置2箇所」は, 上の筆者の西門の写真の「八脚門であった西門北西部の控え柱2本(距離は3.5m)」に対応する。上述最後の引用で, 「北西隅の礎石堀形は, 直径1.3m, 検出面からの深さ15cmで, 黄褐色山土が版築状に詰まる」とあるが, これは神武紀に記された天香具山のはにつち埴土の可能性が高い。
天香具山の埴土は神武紀に表れていて, この埴土を使ってひらか平瓮をつくり, 天神へのお供えすることで, 相次ぐ戦勝となり, 大和にたどり着く。 青木敬 (2017, p. 140: 土木技術の古代史, 吉川弘文館)には, 「(中略)それが藤原宮大極殿南門と大官大寺の堂塔だ。これら(吉備池廃寺と併せて)三遺跡は,いずれも天香具山の周辺に所在することと,天皇が造営を命じた施設という点が共通する。天香具山の周辺には,これらの版築土とよく似た山土がある」とあり, 飛鳥寺西門控え柱の基礎の黄褐色山土が, 天香具山由来である可能性は高いと思われるのである。
成迫(2010, 下に書誌)は, 天香久山と畝傍山の埴土を使って, 平瓮を実際に焼いている。前段で次のように言う。
「『日本書紀』の神武紀で神武天皇が,『住吉大社神代紀』 で神功皇后が,天香久山山頂の埴土で天平瓮(あめのひ らか)という皿状の土器を作って天神と住吉大神に戦勝 を祈願したという記述がある1)4)。 また,畝傍山には,住吉大社の使いが山頂で埴土を採 取し,持ち帰って祈年祭・新嘗祭の為の平瓮を作成する 「埴土神事」が現存する。その起源は少なくとも13世紀以 前に遡ることがわかっている2)4)」。
結論の一部として, 「天香久山山頂には斑レイ岩起源の粘土(赤埴)が分布 する。粘土鉱物はハロイサイトとモンモリロナイトで, 鉄分を多含するため焼成すると赤系統の色味を呈する。 可塑性が大で土器の原料に適している」とある。
成迫法之, 2010. 天香久山と畝傍山の埴土研究-その土器原料としての物性について-. 全地連「技術フォーラム2010」那覇 , 報告49. (全2ページ)
https://www.web-gis.jp/e-Forum/2010/049.pdf
資料図表12
出典: 奈文研(花谷 浩), 1997. 飛鳥寺の調査 ー 1996-1次. 奈文研年報, 1997-II, pp. 44-51. 上図はp. 46に掲載。
飛鳥寺伽藍北縁線と甘橿丘東西2峰軸の一致している。この図はここでは省略する。水落遺跡から飛鳥寺西門跡までの道の西門に近い地点でこの甘橿丘東西2峰軸を観察できるはずであるが,甘樫丘が樹木で覆われていて, 東西軸上の二峰を観察することができない。これは甘樫丘内の峰伝いの道からも同様であった。現在でも, 落葉後であれば可能かもしれない。
飛鳥寺西門から, さらに徒歩で飛鳥宮跡に向かう。
発掘で復元された飛鳥宮跡(2016年に伝飛鳥板蓋宮跡から変更)の石組みをなどをみます。次に問題のない簡便なソースの部分引用をします。
皇極天皇、斉明天皇(皇極天皇重祚)の皇居跡で、伝飛鳥板蓋宮跡とされていたが、継続的な調査で、飛鳥板蓋宮だけでなく、飛鳥岡本宮(舒明天皇)や、後飛鳥岡本宮(斉明天皇)、飛鳥浄御原宮(天武・持統両天皇)など、複数の宮が継続的に置かれていたことが判明し、平成28年に、名称が「飛鳥宮跡」に改められた。現在復元されている石敷広場や大井戸跡は上層の飛鳥浄御原宮のもの。
出典: なら旅ネット
6世紀末から7世紀後半まで飛鳥の地に営まれた飛鳥宮のうち、板蓋宮は皇極天皇が643年に遷都し、645年の大化の改新の舞台にもなった宮である。この地域では1959年(昭和34)以来継続的に調査が実施されており、掘立柱建物、塀、石組みの溝、石敷き遺構など、多くの遺構遺物の検出をみている。名称として板蓋宮跡となっているが、この前には飛鳥岡本宮が、この後には後飛鳥岡本宮・飛鳥浄御原宮がほぼ同じ場所に造営されている。その中心部とみられるのは、この平坦地南西寄りの部分で、東西約130m、南北230m以上と推定される回廊をめぐらす一画。整然と殿舎が配置され、7世紀後半のわが国の都城制の発展をみるうえで、きわめて重要とされ、1972年(昭和47)に宮殿内郭東北部の大井戸を中心とした一画が国の史跡に指定された。その後、建物遺構にもとづいて、往時の建物などの状況を植栽で、柱穴をコンクリート立柱でそれぞれ明示し、建物・大井戸周囲の玉石敷は復元・整備された。
出典: 講談社 国指定史跡ガイド
次に飛鳥宮跡のマップを示す。
資料図表13
出典: 明日香村, 2014. 飛鳥宮跡保存活用構想検討報告書. p. 4の図。
飛鳥宮跡内郭北東部の大井戸跡 東側から甘樫丘に向かって撮影 Aug. 25, 2018
大井戸跡と甘樫丘の間に,大井戸跡に近接して植え込みが見えるがこれは次の写真の建物跡。
資料写真9
飛鳥宮跡の建物跡 Aug. 25, 2018撮影
柱跡にコンクリート柱を置いている。植え込みはツゲ黄楊。次の歌から着想を得たものか?
万葉集 第13巻(3295) (※長歌の一部抜粋) 詠み人知らず か黒き髪に 真木綿以ち あざさ結ひ垂れ 大和の 黄楊の小櫛を 抑え挿す 刺細の子 それそわが妻
この後背部の白く光る屋根は飛鳥宮跡苑池そばの資料館など。次にこの右手にある苑池跡にゆく。
資料写真10
飛鳥宮跡の北に接した飛鳥京跡苑池が立地する過去に未だ報告のない好例の河岸段丘地形を観察し,飛鳥川の付け替えの時期について考えます。 上述の2.1の飛鳥宮跡のマップの青線で囲った飛鳥宮跡の内郭北西方向に隣接する部分である。
次の写真は苑池Aug. 25, 2018現在の発掘現場である。土曜日のために作業休止中と考えられる。発掘関係の小屋(白っぽい壁)が載る部分は飛鳥川線状谷の段丘b面terr_bで, この左手の発掘部分も同様のb面で,苑池遺跡となっている。 これより一段高い手前の緑地は元飛鳥川の扇状地面で,もっとも近接する薄茶色の盛り土上には飛鳥宮跡資料館が載る。
資料写真11
次の図は, グールグアース上に, 飛鳥川線状谷の河岸段丘と, 古飛鳥川, 元飛鳥川,そして現飛鳥川などを示す。 河岸段丘は上位から, a面(赤色枠), b面 (黄色枠), c面 (水色枠), d面 (白色枠)である。 「飛鳥宮跡III」と付した○の手前に伝板蓋宮跡があり, 右手前の黄色枠で示した b面に苑池跡がある。
資料図表14
木庭(2018, 第3章コラム, p. 93, 図1)
次の図は, 隣接する空中写真上に, 地形境界と字境界などを載せたものである。発掘場所はこのうちの北池(右図の出水としたところか)か? ゴミ田とした凹所のすぐ西側に天香具山軸が走る。これより西側では,左図の白い破線部は高まりになっている。苑池が造成されたのは斉明期と考えられており, 水落遺跡と一致する。この苑池跡はb面に乗っている。これも, 争奪時期の上限年代に当たっている。
資料図表15
木庭(2018, 第3章, コラム, 図3)
次の図は, この苑池跡が立地する河岸段丘の地形と地質を示している。河岸段丘地形は, 土地利用のために人が破壊してしまうので, 残ることは少なく, 筆者も未だ見る機会がなかったが,ここでは見ることができる。地形からみて, 上図左図の破線で示した高まりなどから, 次のようなポイントバー地形と地質が想定される。
資料図表16
木庭(2018, 第3章, コラム, 参考図)
アグイb2面上で掘り出された礫
資料写真12
飛鳥川b2面から撮影Aug. 25, 2018。 扇状地面上の二つの白い壁の建物は, 飛鳥宮跡の資料館とトイレで, その右手の建物群は個人の家屋群でa面に載る。手前の川は飛鳥川。
資料写真13
次の図は, 資料図表13の内郭部分を拡大して, 地形分類図や発掘成果を載せたものである。内郭の正殿の東西に南北に長い建物跡があって, 黄緑色は発掘されたもので, それに基づいて想定される建物が赤色で表示されている。この想定に誤りはないだろう。正殿の西の長方形の赤い枠は, 飛鳥川の段丘a面の段丘崖か段丘面上に位置しており, このような不完全な場所に, 南北軸の東西に対称に配置されるべき皇居が建設される筈はない。 つまりは, 皇居建設ののちに,急激な飛鳥川線状谷によって破壊されたと考えてよい。つまり, この飛鳥宮IIIの成立年代が, 飛鳥川の争奪, つまりは開削の下限年代となるのである。このような観点を理解するには, 地形学的素養が必要であるが,ここでは述べない。 木庭(2018)の第3章コラムや第1章を読んでいただいたらほぼ理解できると思われる。
木庭(2018, 月刊地理63-4)のこれに関する記述の一部を次に引用する。
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元飛鳥川扇状地は砂礫層で構成されるために、人工的要 因による下刻の回春は容易に進んだ。後岡本宮を抉った飛 鳥川はa面から離脱し、b面に急激に移ったので、抉られ た後の後岡本宮の敷地は維持されることになった。維持さ れることになった、というのは、たとえば図4に示した河 岸段丘崖の上下とその周辺を見ても、現在も崩壊地形など は見られず、維持されているからである。1947年米軍 撮影、1971年国土地理院撮影のいずれの空中写真も同 様であった。特に戦後すぐに撮影された米軍写真では山林 の植生などがかなり破壊されており、そういった環境であっ ても崖崩れなどが生じていないということである。 斉明天皇前任の孝徳天皇は白雉5(孝徳10=654)年 に難波宮で病死し、翌年、斉明天皇はかつて自ら(皇極天皇) が造営した飛鳥板蓋宮で重祚したのだが、火災に遭い、飛 鳥川原宮に遷っている。さらに翌年の斉明2(656)年 に後飛鳥岡本宮に遷っている。『日本書紀』斉明紀には、「こ の年(656年)、飛鳥の岡本にさらに宮地を定めた。おり から燉、百済、新羅が揃って使いを遣わし調をたてまつっ たので、紺色(つゆくさ色)の幕をこの宮地に張って、饗 応をされた。やがて宮殿が出来ると、天皇はお移りになっ た。名づけて後飛鳥岡本宮という」とある。そのまま読めば、 後飛鳥岡本宮の造営開始は斉明元(655)年と言えるだ ろう。 以上から、付け替えによる飛鳥川線状谷形成の下限年代 は斉明元(655)年で、上限年代は斉明六(660)年 となる。上限年代は物理的で動かないが、下限年代につい ては多少遡る可能性はある。遡る限界としては、白雉4 (653)年ではないかとは思う。この理由は省略する。
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資料図表17
木庭(2018, 第3章, コラム, 図4)
この正殿西の破壊された場所の現状を次に示す。この中央部には左方向弧状に水路が走っている。これは吉野川分水路で, すぐ上の図には, 吉野川東部幹線水路 (飛鳥工区(右))と記されている。上の図の内郭を示した矩形の南西隅がすぐ下の写真の場所にあたる。この水路の右手は元飛鳥川の扇状地面で,左手には飛鳥川線状谷のa面の段丘崖の頂部に近い部分が見えているにすぎない。
資料写真14
この巡検のテーマとは直接関係ないが,吉野川分水の現場なので, 次の写真を示す。上の写真撮影位置のすぐそばで, 飛鳥川の左岸から流れ込んでいる吉野川分水である。空に突き出た看板にそう記されている。吉野川分水については多数の資料がネット上にもあるが,その歴史を見るのに次のサイト情報を掲載する。大和平野土地改良区資料
資料写真15
最後に近づきました。 橘寺拝観料 大人350円, お釣りがないことが多く小銭を用意しておく必要がある。
車の場合, 向かって右手の東口から入るが, 巡検では左手の西口(橘寺中門跡)から入る。ただ, その前に飛鳥宮都の谷をまっすぐ北に眺望して, 先に天香具山を確認する。
入山して, 橘寺仏塔跡礎石を確認します。これが天香具山軸上に載っています。
下の図は飛鳥川線状谷の河岸段丘の分布を示したものである。飛鳥宮都の谷で, もっとも北に位置する大官大寺仏塔跡, 中核部の天文台があった水落遺跡や間接的に立地する飛鳥寺, そしてもっとも南に位置する橘寺仏塔跡, と天香具山軸は続いている。 他に, 右岸の苑池遺跡西縁の線状の崖や左岸の段丘を切り取った線状の崖も観察される。
資料図表18
木庭(2018, p. 94, 図2)
同場所から東側の争奪地形を観察
(橘寺は古飛鳥川河床跡,向かいの明日香村役場一帯は,1万年ほど前に争奪した元飛鳥川河床跡,さらに斉明期の付け替えによって生まれた現飛鳥川河谷内の河岸段丘面を見る)
橘寺西門から出て亀石まで
資料写真16
元高取川の付け替え,見瀬の開削,高取川遡上ー飛鳥宮IIIへの参内ルートをイメージ してのルートであるが, 巡検の流れに混乱が生じるので説明は省略する。
a. この巡検でご説明してきた木庭の研究テーマをリストアップ
b. 納得できたことと疑問に思ったことや反論。
各グループによる5分程度のことあげと木庭の弁明
以上を踏まえて,自ら考えたことをまとめてもらう。試験の課題は次のようです。
1. この巡検でご説明してきた木庭の研究テーマを巡検の順序とは関係なく,論理的にまとめてください。
2. 上記のうち,納得できた内容を簡潔にご説明ください。
3. 上記のうち,反論をお持ちの場合,それを論理的にご説明ください。
4. 巡検運営について,改善の余地があると考えらえる場合,ご提案ください。
以 上