06/3/5掲載
エッセー:地(理・学)の再生にむけて
(千里地理No.54,2006.3発行)
木庭元晴
戦前の地理は,国策上,重要な科目であった。地図作成,読図,農林水鉱工業の産地や生産量,人口など,国家システムを構築する上で基礎的教科と言えた。地学は日本では欧米に模して戦後に生まれたもので,天文・気象・地質で構成される。京都府の高校に通った私は,地理も地学も1年生の時に必修科目として週に5時間学んだ。いまは,地理と地学は,社会と理科という違いはあるものの,学校教育では類似のきびしい状況にある。日本全体の履修者比率について明確ではないが,地理が2割強程度,地学は1割を切るだろう。
この状況に至った理由は一つではないであろうが,入試との関連が最も理解しやすい。入試の主要科目は,理科では物理と化学,社会科では日本史と世界史である。地学など理系分野を大学で深く学ぶには,より基礎分野である物理と数学が必要である。受験生の負担を大きくせず大学入学後の研究の展開を期待するのであれば地学は省略してもいいとも考え得る。
ところが,地学に対応する論理を地理に当てはめるには無理がある。大学入学後,地理学を深く学ぶのに歴史を前もって学ぶ必要性は低い。文系学部全体を通じても,前もって歴史学を学ぶ必要性はないだろう。文系の学問を深める前提となる素養としてどういう科目を設定すればいいのか。歴史に重きをおかず,過去の文化や思想の中味を学び,論理的展開力を高めうる科目がおそらく文系の基礎科目として適当であろう。この意味では歴史は入試科目として適当ではない。それにもかかわらず,なにゆえ重視されているのか。これを論じる蘊蓄を私は持たないが,おそらく幕末からの国史の流れと関連があろう。
このように,大学で学習や研究をするための基礎科目という視点では,地学と地理の凋落をまとめて説明することができない。とすると,高校の科目に関連した大学での研究室の力関係に求めうるのか。入試科目の英数国理社にかかわる学部は,文学部と理学部である。実学分野からの積極的科目はこれまで提示されていない。戦後成立した(新制)国立大学は理学部の構成学科について地学科と生物学科の二者択一を文部省に迫られた歴史があり,その意味でも地学科は生物学科とともに理学部では弱い立場にある。地理学教室はご存知のとおり文学部と理学部またはその相当学部にあるが,いわゆる新制国立大学で地理学教室を持つ大学は10校ほどである。このように,この力学が地学と地理の現在の弱い立場を説明していると考えてよいだろう。学校で学ぶ分野はこのように決まっている。
ひるがえって,地学や地理は,はたして他の教科と比べて学校教育でより必要なものだろうか。社会人の素養または生きてゆくための情報の価値という視点から見て,どうであろうか。日本地誌や世界地誌は,現在提供されているものが最も適切かどうかは別にして,生徒の世界観を築く上でかなり重要な位置を占めるであろう。人類の進化に至る地球観もさることながら,地学で学ぶ災害科学は,個人だけではなく人類の福祉にも貢献するであろう。
小学校の時代から地理や地学の分野に私は興味があった。その私であっても,地理や地学は暗記的科目であると感じていた。今の若者の地理や地学の知識が極端に低いことから想像するに,現在の小中学校では私の時代とは違って,暗記することを求めていないようである。それゆえ,今の若者が地理を暗記科目と考えているかはわからない。私の時代でもそうであるが,歴史の方が暗記すべきことは多かった。とすると,地理や地学を暗記科目とするのは,情報間の繋がりについて,魅力が低いということかも知れない。
算数・数学や国語を暗記科目とは言わない。しかしながら,算数・数学では九九や多数の公式を覚えなければならないし,国語も多くの漢字や熟語または古語を覚えなければならない。地理や地学よりも覚えることは多い。にもかかわらず何故,暗記科目の印象があるのか。それは文脈だろうと思う。算数・数学や国語は同様の知識が繰り返される。そのことによって,頭脳に文脈が形成される。科目内容を面白くするための教科書作成の努力は,地理も地学も大変なものである。ところが両科目とも広範囲の知識型であるが故に,型にはまった繰り返しが少ない。多様であるがゆえに,生徒が対応できないのである。そのため,捉えられず放棄される。
ではどうすればいいのか。地理も地学も広汎な知識の海の底に流れるロジックはそれほど多くはない。自然現象であれ,人文現象であれ,時間軸でのプロセスや空間分布の違いにこだわることが多く,それをただ羅列することで教科書が終わっている。例として砂地形の名称の一つ砂嘴を取り上げよう。教科書には砂嘴の図やその分布上の特徴が示されている。ところがその成因は述べられていない。どのように砂嘴が生まれてその地形が現出し続けるのかを問わない。都市であっても地図にその分布が示されるが,砂嘴と同様その成因と存在の理由が示されない。大阪一つをとっても現在では国際経済と連動しており,単に秀吉の城下町,東洋のマンチェスター,というような過去の経緯や淀川の水というような自然環境を示すだけでは説明できない。では多様な情報を駆使すればいいのか。それとは反対に,基本的な都市存立の枠組みこそ想定すべきなのであって,そのモデルを示すことがより教育効果が大きいと想像される。
地理も地学もその教育を成功させるためには,知識の羅列から脱却し,いまさらながらであるが,有効なモデル群を提示することが重要となると考えるのである。
以 上